蜜から灰へ (神話論理 2) pdfダウンロード

蜜から灰へ (神話論理 2)

によって クロード レヴィ=ストロース


4.5 5つ星のうち(1人の読者)

蜜から灰へ (神話論理 2) pdfダウンロード - 内容紹介 〈蜂蜜とタバコは食物ではあるが、どちらも厳密な意味での料理には属さない。蜂蜜は、人間ではなく、ミツバチが作るものであって、そのまま食用に供されるし、タバコのもっとも一般的な用法は、蜂蜜とは異なり、タバコを料理の手前ではなく向こう側に置く。誰もタバコを蜂蜜のように生で食べたり、肉のようにあらかじめ火を通して食べたりはしない。火をつけて煙を吸うのである。…第㈵巻では、生のものと火を通したものという、料理を構成する基本的な二つのカテゴリーの対立を研究したが、熱帯アメリカこそが、第二の対立を分析するのに都合がよい。その対立とは、蜂蜜とタバコという、料理法が一方は料理以下であり、他方は料理を超えた先という補足的性格のものである。したがってわたしが継続するのは、自然から文化への移行の神話的表現の調査である。自然を拡大し、また文化の領域を広げると、第㈵巻でおこなった料理の神話的起源に関する調査に続いて、この巻では、料理の周辺とでも呼べるものの考察ができるであろう〉 序章的性格の「音合わせのために」、蜂蜜に狂う娘と卑しい誘惑者と内気な夫の物語などを扱う第1部「乾いたものと湿ったもの」、第2部「カエルの祝宴」、第3部「八月は四旬節」、第4部「暗闇の楽器」から構成される本書は、神話の思考についての構造分析の意義をめぐる考察でフィナーレをむかえる。そして、南アメリカの神話をひとまず終え、第㈽巻『食卓作法の起源』第㈿巻『裸の人』における北アメリカの神話へと考察対象の軸が移ってゆくのである。全5巻 内容(「BOOK」データベースより) “蜂蜜”と“タバコ”という、料理の周辺ともいうべきものを扱った南アメリカの諸神話には、どのような宇宙論的含意があるか。細部への注視と構造分析により、神話の思考とその意味を顕わにする。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) レヴィ=ストロース,クロード 1908年ベルギーに生まれる。パリ大学卒業。1931年、哲学教授資格を得る。1935‐38年、新設のサン・パウロ大学社会学教授として赴任、人類学の研究を始める。1941年からニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで文化人類学の研究に従事。1959年コレージュ・ド・フランスの正教授となり、社会人類学の講座を創設。1982年退官。アカデミー・フランセーズ会員 早水/洋太郎 1941年に生まれる。1972年京都大学大学院文学研究科博士課程中退。愛知県立大学名誉教授。フランス文学専攻(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 続きを見る

蜜から灰へ (神話論理 2)の詳細

本のタイトル : 蜜から灰へ (神話論理 2)
作者 : クロード レヴィ=ストロース
ISBN-10 : 4622081520
発売日 : 2007/1/23
カテゴリ : 本
ファイルサイズ : 22.4 (現在のサーバー速度は28.21 Mbpsです
以下は 蜜から灰へ (神話論理 2) の最も正直なレビューです。 この本を読んだり購入したりする場合は、これを検討してください。
レヴィ・ストロースの主著『神話論理』訳書全5巻の、第2巻めです。前著で、料理が、<火を契機にした、自然から文化への移行>であることを、さまざまな民族の荒唐無稽な神話のなかから見出した著者は、本書において、蜂蜜と煙草についての神話を集め、考察します。なるほど、蜂蜜も煙草も、料理に隣接し、ただし料理ではなく、したがって、その考察は、前著と補完関係をなすでしょう。本書もまた実に多彩な神話が紹介され、それらはいずれも無類におもしろい。しかし、書評者を困らせることに、要約は不可能に近く、またこの2巻めにおいては、どれかひとつの神話を選んで紹介することにも意味がありません。一般に、書評はその本に書かれている内容を要約し評価を与えるものだけれど、しかし、きょくたんな例としてたとえば聖書のように、あるいは文学の世界で言えばガルシア・マルケスの『百年の孤独』のように、要約が不可能か、あるいは要約によってゆたかさが著しく損なわれてしまう場合、別の方法が考えられるべきでしょう、本書もまたそんな本です。本書を読みながら、ぼくがおもいだしたことは、フランスレストラン料理の世界のスター・シェフのひとり、ミシェル・ブラス・シェフのスペシャリテ、ガルグイユという料理のことでした。これは40種に近いさまざまな野菜を別鍋で茹でることで、それぞれの野菜のまろやかな優しい糖度を最大限引き出し、それらを音楽のように交響させ、最後にバターソースで和えて供する料理です。さて、では、その料理の名前、ガルグイユ(=ガーゴイル)は、いったいなにゆえ、怪物の名前をつけられているのでしょう。ぼくは長いことそれが謎でしたが、ある日、気がつきました、例えばノートルダム大聖堂に見られるとおり、ガーゴイルは建築物の屋根に、雨どいの飾りとして、(あるいは魔よけの意味もこめて?)設置されます、雨どいですから、雨が降るとゴボゴボ音をたてます。ガルグイユもまた40種近い野菜を別鍋で茹でるわけですから、厨房ではずらりと並んだ鍋たちが、いっせいに沸騰し、ゴボゴボ音をたてています。なるほど、ガルグイユ、その料理名は、料理そのものに由来するのではなく、料理の<外>、すなわち調理中に鍋がたてる音にちなんでいるのでした。この料理名には、神話的ゆたかさがあると同時に、他方で、三ツ星シェフという危険な綱渡りを続けるシェフの、緊張しはりつめた精神をもかいま見るおもいがします。さて、本書『灰から蜜へ』は、蜂蜜と煙草の神話の多種多彩なヴァージョンの収集と分析からはじまり、それが長く長くねばりづよく続いた後に、<破壊者としての蜜蜂>という観念を経て、蜂蜜を見つけるのを助けるための暗闇の楽器が、悪魔祓いの性格もあることを経て、ヒョウタンの6分類に至ります。著者によるとヒョウタンは、悪魔祓いにも、精霊を呼ぶためにも、逆に悪魔に奉仕するためにもなれば、はたまた櫂にもなる、たんじゅんな分類を超越する存在。著者によるヒョウタン6分類は、漁のおまもり、がらがら(音を出すものとして)、悪魔的ヒョウタン、ごぼごぼいうヒョウタン、くるくるまわるヒョウタン、叩くヒョウタン。それにしても、なにゆえこれが本書の末尾に置かれているのでしょうか?著者は指摘します、料理の神話と、(蜂蜜や煙草などの)料理の周辺部の神話には対称性がある。前者は、料理の実践がもたらす世界の円満な状態(喩えるならば結婚)を象徴し、後者は、喩えるならば結婚のむすびつきの病理を語っている。すなわち後者の神話は、前者の神話の逆転であり、前者における文化がいついかなるとき自然の側へぐらりと傾くかもしれない、不安定を表象している。なるほど、ヒョウタンは、秩序のためにも、秩序を脅かす側のためにも、活躍します。なんて荒唐無稽な理路でしょう!しかしながら、著者の入念な神話分析に併走してきた読者は、著者の理路をけっして否定できません。さて、ぼくはこのけっして要約できない本のゆたかさを、要約によって貧しくする罪を犯したでしょうか?あるいはそうかもしれません。しかし、本書の美質は結論よりもむしろ、そこに至る長い長い神話の探査の旅路のゆたかさにこそ宿っています。

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