相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)本ダウンロードepub
相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)
によって 入不二基義
4.6 5つ星のうち(7人の読者)
相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)本ダウンロードepub - すべては相対的で、唯一絶対の真理や正しさはない――この相対主義の「論理」を相対主義自身にも適用し、極限まで追いかける。その最果ての地で、どのような風景が目撃されるのか? 本書では、ルイス・キャロルのパラドクス、マクタガートによる時間の非実在性の証明、デイヴィドソンの概念枠批判、クオリア問題等を素材に、「相対化」の問題を哲学する。相対主義を純化し蒸発させることを通して、「私たち」の絶対性を浮き彫りにすると同時に、その「私たち」も到達しえない“他なるもの”の姿を鮮やかに描き出す。ダイナミックな哲学の思考運動が体感できる名著。
相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)の詳細
本のタイトル : 相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)
作者 : 入不二基義
カテゴリ : 本
ファイル名 : 相対主義の極北-ちくま学芸文庫.pdf
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以下は 相対主義の極北 (ちくま学芸文庫) の最も正直なレビューです。 この本を読んだり購入したりする場合は、これを検討してください。
2001年の著作。相対主義は相対性そのものを真理として主張する。そのため自己論駁に陥る。本書はこの自己論駁を内在的に極限まで問い詰めた先にどのような思考が立ち現れてくるかを思索したもの。まず第1章で相対主義の考え方を六つの局面から説明している。1.内在化(超越的な視点の拒否)、2.複数化、3.(相互の)断絶性、4.再帰性(自己適用)、5.相対性と絶対性の反転、6.非-知の次元、の六つであり、相対主義は最終的に6の段階で懐疑論へと行き着いてしまう。著者は、ここで相対主義の議論を終わらせるのではなく、相対主義の可能性を相対主義の自己適用を徹底化することで見極めようとする。自己適用から生じる結論は、何が真理であるかは認識の枠組みに依存するという相対主義の主張とその認識の枠組みそのものが永遠に無限後退していくということだ。ここで相対主義の強度を上げるとそれは絶対的なものへと反転する。しかし、その絶対性はその極限で相対性へとさらに反転する。こうして相対主義を構成するものとは、絶対性と相対性の力動的な反転関係ということになる。ここまでの議論は(まぁなんとか)ついて行ける。しかし、著者の議論はここから実在論へと移っていく。実在論には二つの考え方がある。「立ち現われ(現象)」を実在とみなす弱い実在論と現れの背後に認知不可能な実在があると考える強い実在論である。ここで著者は、この強い実在論の極限化と相対主義の自己徹底化が究極的に一致するという。個人主義的な相対主義は自己の「思い(現われ)」がそのまま真理と重なってしまう。しかし、認識の枠組みによって共同主観的に秩序付けられた「現われ」は安定性を持っている。真理とは枠組みによって高度に組織化されて安定している「現われ」のことであり、また枠組みによって異なる形をとる相対的なものだ。ここで「現われ」と「真理/実在」との間の距離という点に関して、相対主義と実在論は同じ構成をとるという。立ち現われ以前の「何もないということさえない」という状況と「想定不可能であるということさえ想定不可能」であるという状態は、人間の認識の到達可能な極限として、一致する。よって相対主義の極北と実在論の極限は一致する。これが私なりに理解した本書の結論だ。議論は終始、極端に抽象的であるし、理論は極めてacrobatな展開をするので読み通すのに骨が折れる。このような議論が当を得ているのかどうかは、私には良く分からない。しかし、実在論と組み合わせて議論する必要性が、どうしても最後までわからなかった。唐突に実在論の議論が登場し、実在論の極限が相対主義と同一であることを証明することに何の意味があったのだろう。う〜ん、私は途中から著者の意図を見失ってしまった。。。だが、相対主義を極限まで問い詰めるという考えは、非常に刺激的で面白いし、議論は独自性に溢れている。西洋哲学の紹介ばかりやっている日本の哲学「学者」が多い中で、極めて独創的であることは確かだ。哲学に興味があったら一度はこうした日本人による独創的な本を読んでみるのも価値があると思う。
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